40代の婚活・努力しても成功しない理由とは?
今現在、婚活していてもうまくいかないと困っている人はいませんか。
もしあなたが、実際に困っているのであれば、努力の仕方が多少ピントずれを起こしているからかもしれません。
40代になって婚活で焦りを感じてしまうのもわかります。
しかし、焦っても無駄な努力をしている時間はあなたにはありません。
今必要なのは、婚活への意欲と、確実に成果を生み出すことのできる努力に他なりません。
今回は、何が無駄な努力になっているのか、そのポイントと理由を詳しくご紹介します。
逆を言えば、今回ご紹介することを避けて努力をすれば、婚活の成功は一歩近づいてきたと考えてもらってもいいでしょう。
お金をかけ過ぎている
きれいに見せたい、若く見せたい、ブランド品で自分の質を高めたい。
婚活で自分に興味を持ってもらうには、これらのアクションは必要不可欠に思えなくもありません。
特にアラフォー世代ともなれば、自分で稼いだお金を自由に使えるようになってきていますから、いいものを選ぶ金銭的な余裕もあります。
しかしそれが、婚活の弊害になっていることもあるのです。
例えば、40代の交際クラブ・デートクラブの女性が、20代の交際クラブ・デートクラブの女性ではやっているメイクをして、
20代の交際クラブ・デートクラブの女性の間ではやっているブランドの洋服に身を包んでいると、相手はどのような印象を受けるでしょうか。
女性が本当に若々しいならばかわいいと思われるでしょうが、そうでない場合はむしろ「痛々しい」と思われることもあるのです。
また、エステに通って若さをしっかり維持しようとすることも努力と言えるのでしょうが、40代ともなれば既に若々しくなると言うよりは「維持する」ことに終始してしまいます。
いつかはぼろが出てくるのですから、それを隠し通すようにずっと努力すると言うのは、相手に対して自分を偽って見せていると考える人も中にはいます。
特に女性の場合は、やがてノーメイクの姿を見せる時が来るのですから、あまり美貌にこだわり過ぎると、本当の自分をさらけ出せないジレンマに陥ります。
あと、ブランド品にお金をかけ過ぎるのも危険です。
あなたに好意を持っている相手が「ブランド品をプレゼントしなくてはいけないのか」と考えるようになり、自分の出費を計算してしまったとたん、
あなたとの関係を疎遠にしてしまうこともありますから、注意が必要です。
相手と張り合おうとするのは極めて危険
結婚をするということは、お互いのことを尊重し合えるパートナーとして、一生ともに暮らしていくと言うことを考えなくてはいけません。
あくまでパートナーであって、ライバルではないのです。
しかし、そこを勘違いする人が中にはいます。お互いに交際を開始したとたん、相手と張り合うような態度をとる人がいますが、これは極めて危険です。
2人の交際について、どちらがイニシアチブを握って進めていこうかと考えた結果、自分が相手に対して常に優位であるようにしたいと考えて、
相手の行動に対してすべて自分の方が勝っていると言わんばかりの態度をとるわけです。
結婚は、お互いのことを思いやり、お互いを助け合い、一緒に喜びを分かち合うものです。
お互いをライバル視して、火花を散らしながら暮らしていくようなものではありません。
しかし、付き合っている時にそんな火花をバチバチやってしまうようでは、結婚までたどり着きません。
そもそも、結婚相手を探すのに、「できる人間」か「できない人間」かを判断して決めるのはおかしいです。
自分が相手のことを好きか嫌いか、それで決めるべきなのですから、相手と張り合おうとする考え方は捨て去った方がいいでしょう。
妥協しすぎていると結婚への関心が薄れることもある
40代の婚活だから、タイムリミットはもうない。ある程度妥協することも仕方がない。
ここまでのことを考えて婚活をしている人も、この世の中には意外と多いです。
実際、こう考えることは間違いではないのですが、あまりにも妥協しすぎてしまうと、結婚そのものへの関心がなくなってしまうこともあるのです。
いろいろ相手に求める条件を考えてはいたけれど、次第に年齢からくる焦りの方が勝ってきて、収入はもういい、ルックスもまあいい、
とにかく結婚してくれればもうそれでいい…などと、妥協に妥協を重ねてしまうのです。
しかし、結婚と言うのはお互いに好きになって結婚して、お互いに満足できる形で成すべきものです。
自分だけが妥協すると言うのは、ある意味「我慢」をしているようなものです。
我慢をしている関係と言うのは、何気ないきっかけで破たんすることだってあり得ます。
一時「成田離婚」と言う言葉が流行りましたが、結婚して新婚旅行まで行ったけど、旅先手相手の嫌なところがどんどん見つかり、
結果的に結婚関係を維持できる自信がなくなったから離婚する、というのがこの言葉の趣旨です。
妥協を重ねていると、結局はこの成田離婚のような出来事が起こることになりかねないのです。
ここまで書けば、妥協するばかりが能ではなく、むしろ「譲れない部分もある」と考えられるようになりませんか?